【村中大祐が語る】雑念と執着は違う! [人生]
雑念と執着。
これは似て非なるものなり。
昔から聞く話のなかに、
「そちは執着があるからいかん。
この世への執着など、捨ててみて初めて救われる。」
などといった話をよく聞いたように思う。
だいたい、こういうセリフは
剣術を極めようとするドラマや小説でお目にかかるのだ。
でも私のなかでは、
この執着と雑念は全く違うのだ。
そこを間違えて、何年もの間、
自分のなかから生まれた素晴らしいアイディアを、
「これ執着」などといって放置して来たような気がする。
何と勿体ないことか!
むーらん
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【村中大祐が語る】雑念は捨てるより活かせ! [人生]
昨日から雑念についてお話していますが、
本当にこれ、
アイディアの宝庫ですからね!
それを雑念としてネガティブに打ち捨てる伝統に、
私なりの考えを加えてみました。
別にこれは私の個人的見解ですから。
でも意味のある提言だと思っています。
何故なら、疑問をさしはさむことは、
「悪」とされるのですが、
やはり検証の余地があるからです。
座禅では「目的」がない。
だから良いのでしょうけれど、
「どんどん簡素化」していくと、
結果的には豊かさに繋がらない、という感覚があるのです。
自分の中に出てくるものを認めずして、
誰が自分を認めるのか?他人でしょうか?
自己肯定の一番の基本は
「雑念」や「戯言」(タワゴト、ザレゴト)の類いを、
きちんと認めて前に進むことからしか、
成り立たないのではないでしょうか?
それこそが自己評価に繋がると、
私は思っています。
むーらん
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【村中大祐が語る】雑念を人生の宝に変える法 [人生]
瞑想と座禅は区別して考えないとダメ。
やっぱり私には座禅は合わない。
カタチにこだわるばかりに思えるから。
もちろん人によって受ける感覚は違うから、
批判ではなく、私個人の意見。
私にとって一番大事なのは、
難行苦行のような座禅より、
脱力してリラックスできる空間を持つこと。
そうなると座禅じゃ無理なわけ。
だから瞑想なの。
座禅には半眼や結跏趺坐がある。
それがどうしても苦行になるのと、
やっぱり書いたものが欲しい。
やり方だけ教えて、後はやればわかる、
と言われるのが、どう考えても腑に落ちない。
あ、やっぱり批判かも。
この辺りでやめとくわ。
そう言えば、「やれば分かるもんさ」とは、
私も使うからな。
ははは。許せ。
むーらん
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