【村中大祐が語る】雑念は捨てるより活かせ! [人生]
昨日から雑念についてお話していますが、
本当にこれ、
アイディアの宝庫ですからね!
それを雑念としてネガティブに打ち捨てる伝統に、
私なりの考えを加えてみました。
別にこれは私の個人的見解ですから。
でも意味のある提言だと思っています。
何故なら、疑問をさしはさむことは、
「悪」とされるのですが、
やはり検証の余地があるからです。
座禅では「目的」がない。
だから良いのでしょうけれど、
「どんどん簡素化」していくと、
結果的には豊かさに繋がらない、という感覚があるのです。
自分の中に出てくるものを認めずして、
誰が自分を認めるのか?他人でしょうか?
自己肯定の一番の基本は
「雑念」や「戯言」(タワゴト、ザレゴト)の類いを、
きちんと認めて前に進むことからしか、
成り立たないのではないでしょうか?
それこそが自己評価に繋がると、
私は思っています。
むーらん
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坐禅のこともう一度だけ。
mu-ranさんが辛かった日々を救ってくれたクンバハカ法は確かに時と向き合う辛さを救ってくれた最良の方法だったと思います。そしてそれが一生の間、muranさんの窮地を救うことになる。
私の場合はそれが坐禅でした。
私がちょっと違うかな?と思ったのは、すくわれる前のmuranさんと私の性格の違い。
muranさんは落ち込みから治ってしまえば、前向きで自分のやりたいことがはっきりしているタイプです。何があってもこうしたいという強さがありました。
私にはそれがなかった。自信がない。人生何がしたいかまったくわからない。
そういう人間には、呼吸法プラスアルファが必要だったと思います。
禅寺で聞いた老師の提唱の中にこういうのがありました。
ある四ツ辻、要するに交差点ですね。そこにおじいさんだかおばあさんだかが居て、来る人来る人に道を教えます。
例えば善光寺にしましょうか。善光寺に行く道を尋ねてくる人に、北から来る人にも南から来る人にも西から来る人にも東から来る人にも「そのまままっすぐ行きなさい。」と答える。
普通に考えたら変ですよね。でも、それでいいんだと老師は言う。
まったくわかりませんでした。
今になって考えると納得するんです。自分がいいと思う通り、今のやり方で信じてやってみろ。そうすればいずれ目的地に着く。
私のような自信のない人間には、とにかく坐禅が自分のままでいい、おまえのままが尊いと教えてくれたことが一番の救いだったかもしれません。
呼吸法だけでいい人は瞑想で十分。自分の生き方そのものがわからなくて生きる力のない人には坐禅。
そんな感じなのかな?と思っています。
私、数年前から膝が痛くなって結跏趺坐はしていません。椅子に腰かけても出来るんですよ。坐禅。
結跏趺坐を目の敵にしないで!(^^;;
もう一度だけと書き始めたけれど、今回の記事についてまた書くかもしれません。(^^;;
by 九子 (2018-05-20 08:02)
コメントありがとうございます。
私が問題にしているのは固定観念の話なので
ご自身の経験は大切にされて
坐禅がもっと自由なものだと
表現されるのがベストな気がするのですが。
私は、坐禅という型自体にこだわってしまうのは
物事の本質を見失うように思う。
それだけ。
by mu-ran (2018-05-20 11:15)
ふむふむ、私はmuranさんの坐禅に対する固定観念を少しでも変えたかったのですが・・。
まあ無理ですね!力負けです。(^^;;
はい。自分の本で表現いたします。(^-^)
by 九子 (2018-05-24 00:47)
結跏趺坐を目の敵にしないで、と言われても、脚が痛いのは解決出来ない。年齢が重なって、椅子に座って坐禅するなら、それはもはや坐禅ではなく、瞑想と何ら変わらないのではないでしょうか?つまり自由で良いのなら、型にこだわらず、最初からチカラを抜けるように教えてもらった方が良いです。坐禅では身体全体が頑張ってしまい、終わったら健康より、通院することが多いのは、私の場合事実なのです。腰痛、脚痛、股関節痛。毎回坐禅の度に通院していますから。お金と時間、労力の無駄になる。椅子に座って坐禅なら、それはもう瞑想と同じ。型に拘らずやるなら、最初から自由がいい。物事の本質を見抜いて、本質だけを教えればいい。そう思うのですが、いかがですか?でも坐禅は型から入らないと、分からない世界ですよね?違いますか?その辺りをご本の中で教えていただけると嬉しいですね。期待しています。むーらん
by mu-ran (2018-05-24 05:25)
あら?それは酷い!それじゃあ坐禅が嫌になるのも無理ないですね。
前にも言いましたが、mu-ranさんのように基本的に自分の方針がしっかりしていて、誰に言われても自分を曲げない強さのある人は瞑想で十分だと思います。
私みたいにあっちへふらふらこっちへふらふらの人間には、坐禅の「こうじゃなきゃダメ」というのがむしろ心地よい。
不親切というのもわかりますが、これはきっと個体差があるので「こうすればよい。」と絞り切れないのだと思います。
mu-ranさんには坐禅が合わないというのはよくわかりました。
ただ、せっかくのリーダーシップをお持ちのmu-ranさんが、もしも難行苦行の坐禅をされたら、きっと凄いことになる!
のにもったいないような・・とは思います。
私が原稿の第三章で書いたリーダーになるための難行苦行の坐禅です。
たとえば千日回峰行のような人間の力の限界を超えた修行をすると、やっぱり何かが変わるのだそうです。もちろん私はわかりませんから師匠や先輩和尚のまた聞きです。
本来坐禅はそうなることを求めているので、最初のところでちょっときつい縛りを作って、難しそうな顔を見せているのかな?
とにかくどの程度書けるかはわかりませんが、原稿に反映させるべく努力しますね。(^-^)
by 九子 (2018-05-29 00:10)